3.プラスチック関連物質の研究のスタート

1970年代、四大公害に関する訴訟問題は患者側の全面勝訴で決着しました。大企業による有害物質の川への垂れ流しなどの環境汚染問題は、公害対策基本法が制定され(1967年公布、施行)、問題解決の体制が整えられたと考えて、私は、他の研究課題に取り組んでおりました。

ところが、1冊の本が世界を席巻したのです。先のレイチェル・カーソン女史の「沈黙の春」から30年経って、再び人類を震撼させる書籍でした。まず、そのタイトル、奪われし未来(英語のタイトルは Our stolen future、元本 1996年出版、日本語訳本1997年出版)に仰天するとともに、やっぱり来たかという納得にも近い感情を抱いたのです。驚きの理由は、これまで、私たちが動物実験で得られた、有害化学物質が生殖機能に影響を及ぼすというデータを裏付けるものであり、微量でもこのような影響が多世代にわたって生じるという点にありました。

一番のショックは、男性の生殖能力が深刻な問題である、というデンマークのコペンハーゲン大学の報告でした。35年に及ぶ研究の結果、200人もの不妊の男性の精巣を調べた結果、一部の男性で異常な細胞が出現しており、その異常細胞は癌細胞であることを突き止めたのです。統計を調べた結果、精巣癌患者が4-50年で3-4倍に増加していたことも記されています。さらに、人での生殖器障害は、精巣癌の増加だけではなく、赤ん坊の停留精巣という病気も発生率が、わずか20年間で1.4%から2.9%に増加し、1938年から1991年に報告された世界中の論文を集めた研究者によると、精子濃度は、50年間で約1/2に減少し、精液量も約20%低下していたことを報告しています。

いよいよ化学物質の影響が人間にまで忍び寄ってきたのかと挫折感を覚えたのは、私ばかりではなかったでしょう。

この本、「奪われし未来」は、アメリカのシーア・コルボーン、ダイアン・ダマノスキ、ジョン・ピーターソン・マイアーズ3人によって書かれた環境科学の大作といって過言ではないでしょう。アメリカの当時の副大統領アル・ゴア氏が序文をしたためたことでも有名です。

時期を同じくして、イギリスBBCテレビの科学番組のプロデューサーであったデボラ・キャドバリーによって出版された「メス化する自然」(英語のタイトルは、Our future at risk、 元本 1997年出版、日本語訳本1998年出版)も環境科学者の教科書として手元に置いておきたい一冊です。

この時期、日本では、各テレビ局が環境ホルモン (環境に存在し、生物のホルモンに影響を及ぼす化学物質のこと。内分泌撹乱化学物質が正式名ですが、ある科学者がマスコミで「環境ホルモン」と口走ったところ、わかりやすい、言いやすいということで巷に波及したという逸話があります) について特集を組み、ニュースでは環境ホルモンが話題に上らない日がないという状況に陥っていました。幼稚園生までが先生に“環境ホルモンって知ってる?”というような会話がなされた時期でした。

しかし、今度は1970年代に問題にされた高濃度の有害化学物質の生体への影響ではなく、ごく低濃度(環境中に存在する濃度)の生体影響についてです。当時、70種以上の化学物質に内分泌撹乱作用が確認されており、これから確認試験を行う予定の化学物質はヨーロッパで100000種とも言われていました。上記のコルボーン女史は、「商業目的で作られた化学物質は、約8700種あり、人体には約500種が蓄積されていると推測されます。その中で、人体への影響が調べられているのは約300種です。20世紀の初めにはいずれも人体にはなかったのです。さらに,我々は人体で何が起きているのかよくわかっていないのです。」と2000年に来日した時の朝日新聞のインタビューで答えています。

この様な社会の流れを受けて、再度、化学物質の生態影響についての研究に取り組むことになりました。多くの内分泌撹乱化学物質の中で、何を取り上げ、どのような研究をしていけばよいのか文献を集め、検討しました。

研究対象物質の選定にあたって、まず、将来を担う子どもたちの健康を損なう物質を見つけだすことを念頭に置きました。当時、哺乳瓶や学校給食の食器などに用いられていたプラスチックに含まれていて、その安全性が疑われていたビスフェノールAという化学物質に白羽の矢を当てました。なお、生体影響に関する研究には、生体内の対象化学物質を正確に測定できる機器と実験動物施設が欠かせません。私の研究所にそれらが備わっていたことも選定の大きな理由でした。

それから、15年に及ぶ私のビスフェノールAの研究がスタートしたのです。